ゴッホの人生 3

ゴッホの死んだ兄の墓は、牧師館に近い教会のそばにありました。


鋭い感受性を持った少年にとって、墓石のうえに、自分と同じ名前が刻まれていることは、深い印象を与えずにはおくまいと思われます。


それは、人生の入り口においてすでに、身近なものとしての死を彼に示したでしょう。


或る批評家が言うように、この兄が自分と同じ名前であるために、自分をその兄の身がわりにすぎぬと思うにいたったということも、充分にありえることです。


ゴッホが生涯を通じて、あのように執拗におのれの存在理由を問い続けたということには、こうした事情がかげを落しているかも知れないのです。


このようなゴッホにとってのよろこびは、自然との結びつきであり、彼は、かぶと虫を追いまわしてりっぱなコレクションを作ったり、魚釣りや鳥の巣探しを楽しんでいたようです。


父の教会は、村の人口の2パーセントにも足らぬ信者数に比例してごくごく小さなもので、アカシアやけやきなどに囲まれてひっそりと立っており、林をぬけると、ヒースのはえた野や麦畑が続いていました。


こういう林や野が、幼いゴッホの遊び場だったのでしょう。

ゴッホの人生 2

私は、通りの反対側に立って、今も牧師館として使われているその建物に見入ってしまいました。


オーヴェールで、彼の墓を見た直後であるだけに、まるで死の方から生を見返しているような、何とも異様な思いをしました。


そのうえ、オーヴェールの下宿の前が村役場だったように、この牧師館の前にも、オーヴェールのそれとそっくりな村役場がありました。


私は、ゴッホの『オーヴェールの村役場』を思い起し、彼が死の2週間前にあの村役場を描いたとき、このズンデルトの村役場を二重うつしにして眺めていたのではないかという思いを抑えかねました。


ゴッホのなかには、南への志向と、北へ戻りたいという願いとが共存していて、それがあの作品のなかで、ひとつに結びついたようにも思われるのです。


もっとも、そんなふうにズンデルトを想い続けてはいたものの、ここで過したゴッホの少年期は、必ずしも単に楽しかった時代と評しうるものではなかったようです。


幼いときのゴッホを知る人の証言によると、顔はそばかすだらけで、燃え立つような赤い髪の毛をした.あ少年は「一家の子供たちのうちでもっともかわいげのない子」。


しょっちゅう奇矯なふるまいをして罰せられていたということです。


むずかしい気性で、時おり手に負えぬほどわがままになり、学校でもあまりそのふるまいが粗暴になったために、女家庭教師を探すことになったともいわれています。


いずれにせよ、この少年は、人びとのあいだにあって、すでに、或る孤独のかげを引いているように見えます。


もちろんこれには生れつきの気質が作用しているのでしょうが、彼に、彼より1年前の同じ日に生れ、彼と同じフィンセントという名前をつけられ、生後数週間でなくなった兄がいたということが、気質に由来するものをいっそう強めたと考えていいでしょう。

ゴッホの人生

ゴッホの墓がある共同墓地の石の塀の向うは、一面の麦畑になっています。


わたしがこの地を訪れたのは3月のことで、麦は小さな芽を出しているにすぎず、小雨に濡れたくろぐうとした土がはるか彼方までひろがっていました。


地平線のあたりに、いくつか小さな林が見えるほかは、何ひとつ眼をさえぎるものはありません。


ゴッホが『鴉のいる麦畑』を描いたのはどのあたりなのか。


私には見当がつきませんでしたが、灰色に垂れこめた雲に蔽われたこの野を眺めているうちに、私は、いっせいに飛び去ってゆく鴉の群の幻のごときものを見ました。


オーヴェールからパリに戻って間もなく、私はオランダにたちました。


ブリュッセルからアントワープを経てオランダに入ったのですが、どこまで行っても山どころか丘らしきものも見えぬ、おそろしく平坦な北ブラバントの野を走っていると、ゴッホが、アルルへ行っても、オーヴェールへ行っても、はるかにひろがる野というヴィジョンにとらえられ続けていた理由が実によくわかりました。


オランダ生れの画家といえばモンドリアンもそうですが、モンドリアンのあの純粋抽象の画面にも、このオランダの野の記憶が刻みつけられているのではないかとも思われるのです。


その日は、ベラスケスの絵で名高いブレダに1泊し、翌朝、少し南に戻って、ゴッホの生地であるフロート・ズンデルトを訪れました。


これは、オランダ風にチョコレート色にぬった小ぢんまりとした家が並ぶごく平凡な村。


街道ぞいに牧師館があります。


ゴッホは、この牧師館で、1853年3月30日、オランダ・カルヴァン教会のフローニンゲン派に属する牧師テオドルス・ファン・ゴッホの長男として生れたのです。

熱狂的な信仰によって・・・

アケメネス朝の膨張主義は、ゾロアスター教の影響を強く受けていました。

地球のすべてはアフラ・マズダ神の下に支配しなければならないとでもいうような宗教的な覇権主義が、ダレイオス王やクセルクセス王たちを常に戦場に赴かせました。

しかし、結果的には、その覇権主義が無用な戦争を引き起こし、そのために国力が傾いて、アレクサンドロスのマケドニア・ギリシア連合軍に報復されて滅ぶことになります。

アケメネス朝ペルシアの覇権主義は、ゾロアスター教とともに後のササーン朝に引き継がれていきました。

イラン・イラク戦争当時、アラブ諸国が団結してフセインの後押しをしたのも、ペルシア民族が古代から中東地域で発揮してきた覇権主義への潜在的な脅威があったからでした。

ペルセポリスは豪壮華麗な王宮であったはずです。

しかし、その王宮を廃壇にしてしまった遠因が王たちが信じていた宗教にあったのだとしたら、歴史は皮肉なものです。

「熱狂的な信仰ほど、手に負えないものはない」

イランに平安な日々がまた戻ってくるのを、いましばらく待つことにしましょう。

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ペルシア対ギリシア

ペルセポリス王宮の建設は、ダレイオス1世によって紀元前520年からはじめられ、その後、歴代の王たちによって増改築が続けられたようです。

ただし、王たちが暮らした王宮ではなく、新年の儀礼や、即位の祭典などが行われた儀礼の都で、実際の首都はメソポタミアに近いスーサに置かれていました。

紀元前6世紀から前4世紀の初めまで、オリエント世界はアケメネス朝ペルシアに躁躍されました。

そしてペルシア対ギリシアという対立図式を軸に歴史が進展しました。

古代ペルシア帝国の特徴は、覇権主義につきるように思えます。

すでに広大な領土を抑えていたペルシアがなぜ、数10年もかけてギリシアにまで攻め入ろうとしたのか不思議ですね。

小アジアのギリシア植民地を支配した時点で、束地中海の権益も手に入れ、経済的な面では戦争の目的は達していたはずなのですが、ギリシア本土侵攻作戦を続けます。

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ペルセポリスのスフィンクス"ホマ"

ペルセポリスは広漠とした廃壇という印象。

山の斜面を切り開いた広大なテラス(約450メートル×300メートル)に建てられた宮殿跡ですが、建造時のまま残っている柱は10数本しかありません。

大半の柱は途中で折られるか土台が残っているだけで、みごとに破壊されており、アレクサンドロス軍のペルシアに対する憎しみの凄さが伝わってきます。

レリーフなどがよく残っている接見殿の階段には、ペルシアが征服したさまざまな民族が朝貢する様子が描かれています。

また、ところどころに残る巨大な柱頭の飾りは、雄牛や鳥頭獣体のペルシア風のスフィンクス「ホマ」が彫刻されています。

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"王のモスク"と"金曜日のモスク"

イスファハンは、16世紀~18世紀に栄えたサファヴィー朝の首都。

古代遺跡ではありませんが、この古都にあるふたつのモスク「王のモスク」と「金曜日のモスク」は、世界中のイスラム建築物のなかでも、もっとも美しい建物だと思います。

フォルムも、「王のモスク」のブルーのタイルと、「金曜日のモスク」のクリーム色のタイルを主にした色合いも、実にみごとです。

「王のモスク」のそばで、タ暮れの礼拝を告げるアザーンをぜひ聞いてください。

イスファハンの街並みやバザール、2階建てのハージュ橋などを見ると、ペルシアになぜいくつもの王朝が栄えたのか、豊かさを納得することができるはずです。

ペルセポリスの遺跡は、シーラーズからバスで1時間ほどのところにあります。

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イランに行くなら

イスラムというのは、もともとの意味は「平穏に神に帰依する」ということですから、争乱を好まない宗教でした。

ムハンマドが聖戦を起こしたのも、メッカの商人たちに一族が迫害されたためで、最初から異教徒を攻撃したのではありません。

ムハンマドはすでに信じる神をもつ民族に、改宗を強制することはありませんでした。

しかし、シーア派のイマームたちによって指導されている現在のイランは、イスラム圏だけでなく、世界全体から孤立せざるをえない宗教ナショナリズムに覆われてしまいました。

湾岸戦争後、緊張緩和の傾向が少しずつ見えてきましたが、まだ、ぜひイランにお出かけなさいとすすめられないのが残念なところです。

しかし、イランに出かける人には、ペルセポリスまで行くのなら、その途中で古都イスファハンにも寄ることをすすめます。

テヘランからペルセポリスのあるシーラーズには飛行機もありますが、長距離バスを使って出かけるのが本当はおもしろいのです。

テヘラン―イスファハン間、イスファハン―シーラーズ間ともに400キロ程度の距離がありますが、夜行の長距離バスに乗れば、それぞれひと晩の行程です。

月の砂漠をえんえんと走る旅などというのは、イランくらいでしか経験できません。

途中のキャラバン・サライ(隊商宿)で飲むチャイの味や、砂の砂漠、低木の砂漠、岩の砂漠、ときには塩の砂漠の風景・・・。

生涯忘れがたいものに出会えます。

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イランのイスラム教

イランのイスラム教徒は一般にシーア派と呼ばれ、アラブ圏の多数派であるスンナ(スンニー)派に比べると、純粋志向が強く、その信仰は強固、激烈といわなければならないでしょう。

シーア派は、ムハンマド(マホメット)の死後、4代目のカリフとなったアリーが暗殺されたあとに、アリーの子孫のみを正当なカリフとすると主張した「アリーの一派」のこと。

イスラム圏全体では少数派ですが、イランではシーア派が絶対多数を占めています。

シーア派のイマーム(最高指導者)は、現在の世界は異教徒、なかでもキリスト教徒によって汚されていると説きます。

パフレヴィーも、イラクのフセインも、聖地メッカの守護者サウド家も、エジプトのムバラク大統領も、キリスト教徒の悪魔の国アメリカに魂を売り払った連中であるから、彼らと戦うのは聖戦であるというのです。

同じイスラム社会といっても、エジプトとイランではまったく違います。

宗教というのは、純粋であればあるほど、ほかの宗教との共存を許さなくなりますから困ったものですね・・・。

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日本にイラン人がたくさん来た理由

1967年や70年当時、イランはアメリカの友好国でした。

大学生や軍人など、けっこう英語を話す人びとがいて国自体が開放的でした。

1979年、パフレヴィー国王がエジプトに亡命。

イランはコーランの教えにのっとったイスラム共和国に変わりました。

しかし、この革命のさなかに勢力拡大を狙ったイラクに攻撃され、10年近いイラン・イラク戦争を戦うことになったのです。

イスラム革命後のイランは、外国人、とくにイスラム教徒でない外国人には、旅するのに不便な国になってしまったようです。

長い戦争の影響と、欧米諸国からの禁輸措置のために経済も停滞・・・。

仕事を探しに大勢のイラン人が日本に流れ込んできたのはこういう理由です。

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